バードウォッチング No.104 でこぼこみち①

日野青い鳥・家族会の広報紙の記事として、障害児の母親の子育てのでこぼこをお伝えし、皆様とご一緒に考える機会としています。転載しますので、ご一読ください。

笠原 駒子

☆生きづらさに直面して

 昨年秋、私はシングルマザーになりました。ASD自閉症スペクトラム症)の傾向があり、社交不安障害と診断されている12歳の不登校の息子を、ひとりで育てています。

 ASDADHD(注意欠如・多動症)の特性がとても強かった元夫は、彼にとって困難な出来事に直面しパニックになったときに、よく、

「俺は一般人ではないから、ふつうがわからない、ふつうになれない」

というようなことを言っていました。私は、彼の力になり支えていきたいと思っていたのですが、うまく支えることができませんでした。いろいろあって、彼は結局、音信不通、行方不明になってしまい、今どこでどうしているのか、全くわかりません。

 息子もまた、ASDの傾向があります。元夫を上手く支えられなかった私が、この子を上手に支え、育てていけるのだろうか。ASDグレーゾーンの、とても繊細な心を持つこの子を、ひとりでしっかりと育てていけるのだろうか。とても不安です。仕事では冷静に対処できるようなことも、我が子が相手となると、遠慮のなさゆえなのか、私の中に家族だからという甘えがあるのか、なかなかうまくできないことが多いのです。

 そんなことをときどき口にしていたら、

「あなたと息子さんのでこぼこを、文章にしてみませんか?」

というお話をいただきました。それで今、この文章を書いています。

☆私にとって「ふつう」って…

 「ふつう」って何だろう、ということを、最近よく考えます。元夫が苦しめられていた、「ふつう」というとても曖昧な概念。ふつうの人、ふつうの生活、ふつうの幸せ。考えれば考えるほど、「ふつう」の基準ってよくわからないなぁ、と思います。

 息子を育てていくにあたり、私の目指すことは何だろう、と考えたときに、それは、

「俺、ふつうにしあわせだな~」

と息子が感じてくれることかな、と思いました。そのふつうは、誰かが決めた「ふつう」ではなくて、これから息子が無意識に獲得していく、息子にとっての「ふつう」です。父親のように、自分はふつうじゃない、と苦しむ大人にならないでほしい。ふつう、の基準は、自分自身の中にしかない、というのが、今時点での私が解釈です。息子にとっての「ふつう」が、彼を苦しめる「ふつう」にならないように、私は息子を育てていきたいです。

☆共に歩むために

 うまくいったりいかなかったり、どちらかといえばうまくいかないことのほうが多い日々を、文章にしてみようと思います。書いているうちに、この「でこぼこみち」を何とか上手に歩いていくための手がかりが見つけられるかもしれない、と思っています。

 ★「ふつう」とは—ありのまま、生地で、構えずに、持ち味で、満足感のある・・・、こんな言葉が連想されるが、この点に生きづらさがあるとのこと。

 現在の障害の捉え方は、「障害は人ではなく、社会の側にあると」と捉える社会モデルが軸になっている。とは言え、社会や関係の有り様がモデル論に追いついていないから生きづらさがかしこに露見している訳で、地道な問題提起が必要なのでしょう。

 先般の雑誌PHP-二人目の子がダウン症、どう受けとめるか…。この子が私を人として育ててくれている—この子の障害の意味を母親として捉えている由。(ウ~ン)