バードウォッチングNo.93 青い鳥の生活支援への思い-知的障害の生きづらさ

2023.9.11
日野青い鳥福祉会
理事 村瀬

常識が行き交う社会で生きること

 障害者に対する社会の見方は、いつの間にかその人の力のちょっと上を求めてしまう傾向になりがちです。社会は甘くないと常識的な生活を求められることが多く、また折り合いどころを弁えられない点を突かれ、甘やかしたらダメ、一度許したらエスカレートすると否定的に見られてきました。結果的に生きづらい土壌になっています。

 つい最近まで、きちんとすることが良いこと、きちんさせることが良い支援と結果評価に晒されていました。甘えを出させない、わがままを言わせないことが大人の姿として望ましいとされ、自制的な生活態度に導くことを良しとする訓練的な支援観が強かったようです。

 常識を目安に〈こうあって欲しい〉と背伸びを求めてきたのです。障害に関わらず、分かる・分からない、できる・できないを軸に評価する社会で生きることの厳しさは想像に難くありません。まして知的障害を持っている方にとっては、否定的に見られる場が多くなることは目に見えています。

 概して一般的な見方は、行動に着目するあまり不適切な振る舞いをからかったり、直接的に修正を求めたり、はたまた相手にされなかったり、社会の能力観が反映されるものですから本人には冷たく厳しい風になります。障害者本人はそれに応えきれないため追い込まれ、緊張感や不安感に惑わされて安定度が揺らぎます。

 こうした関係は歪みを生み、生きづらさが上塗りされてゆき、その結果として不適応行動を誘発しかねません。多くの不適応行動は、障害の特異性に気づかず、関わりがズレることで本人の内面の不充足感から生じた二次障害です。ですから、周りの見方が変わらないと不適応行動からの立ち直りができないと言えます。

 能力の点で障害者ははじき出され、取り残されてしまいがちです。一方、生活の点ではどんなに重い障害があっても備わった力で生きていくことになるのですから、自分の丁度の暮らし方でよいのだと捉える現実肯定的な見方が望まれます。

分からない、できないことの生きづらさ

 障害により分からないこと、できないことが間々見られます。問題は分からないこと、できないことが分からない、できないで終わらない点にあります。確実に、そのことが心情に影響し、不安、緊張を伴います。実際には、多くの方が不適応行動を招きかねません。ですから、分からないこと、できないことへ手を入れるだけではなく、この不安、緊張を解きほぐすことが大事になります。

 そこで日常の行動観察やアセスメント(行動分析)により、どのような力を使って暮らしているかを把握しておきます。「ない袖は振れない」のですから難しいことは課題としない、気持ちよく応援する立場を取ります。支援の原則は〈今「ある」姿を認めることが、次の姿に「なる」エネルギーを生み出す〉と言われます。この「ある」から「なる」への変容は生きづらさの心情を受けとめることが第一歩です。良いことも好ましくないことも〈いま「ある」姿を認めること〉が〈次の姿に「なる」エネルギーを生み出す〉と捉えています。「受けとめる」という働きは、単に現状を肯定することなどではなく、今の状況を変える働きをすでにその内側に孕んでいるのです。

障害の壁にぶつかりながら

 知的障害は、いわば頭の中で考える知的な力が障害されています。過去の出来事、未来の事柄も今ここにないため、頭の中で描かなければなりません。この点がうまくいかず、生きづらさになります。

 考える力が覚束ない分、感覚に頼って生きているとも言えます。視覚、聴覚、触覚などを手がかりにしています。こうした感覚は、〈いま・ここ〉で感じられる手がかりです。手ごたえの強い刺激になりますから着目した感覚に引っ張られ偏ってしまいがちで、こだわりなどと批難されがちです。この感覚行為はまさに個人の感覚であり、この自分の感覚を手がかりにせざるを得ないため、勢い相手の立場に立つことが難しくなります。そこで自己本位な色合いに引っ張られる傾向にあります。

 こうした障害による自己本位的なこだわりと見られがちな生きづらさは、社会の障害者に対する見方によって大きく変わってきます。社会で一緒に暮らすのですから、障害は障害者と社会との間にある壁と捉えています。その困難さの多くは、社会から効率性や一律性を求められる際に生じます。

 支援に即してみると、障害に関わらず一人一人に凸凹があるのは自然なことと受け止めています。そこで、自分の強みである凸を励みに努力する姿を引き出します。ここに着目できれば、頑張りがいも生きがいも、そして目標も自信も視野に入れることができることでしょう。

 一方で、自分の弱さである凹を受け入れ、卑屈にならないこと。凸が表に出れば凹は相対的に課題性が薄れるものです。この関係を承知しておくことで由として、凹の修正に力点を置くことは控えます。

 さらに〈いま・ここ〉の感覚的な暮しは、今を一生懸命に生きる土台であり、その真面目な「人となり」を作っていると捉えています。じっくりと感覚的手がかりを身に着けてゆきつつ、次にやってくる経験的に分かって臨む準備につながっているとの見方に立つことができます。